溝仔尾は元々紅毛溪で呼ばれている。スペイン人がこの川を沿って金を採取した噂があって、またこの川は市区を通り越してあるので、住民がこの川を「溝仔」で呼びました。日本統治時代に、南への鉄道工程のお陰で、ここに若者が多く集まりました。中部横貫公路を開発する時に、もっと大勢な若者が集まりまして、若者と住民の衝突や口論事件、また女性を揶揄う事件が常に行うので、ここに風俗街が設立され、これから20年の繁栄時代が始まります。民国50年くらいに、火事事件の後、ここに溝上人家って言う商店街が現れて、フランスのシャンゼリゼ通りのような一番繁栄な時になりました。それから民国69年に、駅の場所が変わるせいで、人々がだんだ少なくなりました。